教育について漠然と考えていること

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教育とは何か。ここ最近こればっかり考えている。一貫してないけど(あえてさせてないけど)、漠然と読者の中で意味をつなげてほしい。

真の教育とは、「何を学ぶか、どのように学ぶかではなく、なぜ学ぶかを実感できるもの」だと、最近読んだ本に書いてあった。(P.R ドーア 『学歴社会 新しい文明病』)。

だけど、教育の市場化で、経済的効果を生み出すことが本質になってしまっている、教育の投資は、必ず数値化できるベネフィットにのみ目が行ってしまっている。塾教育もそうだし(まあそれは理念と一致しているからいいけど)、自分が一番悔しいのは、普通教育、特に私立高校がその波に飲み込まれていることだと思う。真に「教育的なもの」を見逃して、経済効率性に飲み込まれ、「洗脳」的な教育に移行しているのではないか。

経済的効果を狙える教育投資とは、すなはち受験指導であるが、これは前述の「なぜ学ぶか」については一切考えない。なぜなら、それをすることで受験勉強は内的矛盾を抱えてしまうからだ。

この教育は、洗脳だ。なぜなら、それは社会的規範に関して疑問を持たないほうが、楽に生きていけるからである。

だけど、それは真に教育的ではない。

先週英語科の模擬授業で、日本のいろいろな英語教育について(例えばバカロレアについて)を、英語の授業でディスカッションをするという模擬授業をうけて、明らかに英語教育ではないけど、新に教育的だなということを感じた。自分の教育を比較して、矛盾にぶち当たって、その上でどうするのか。それを考えさせるのは、新の教育であると思う。

英語教育は、矛盾にあふれた教育だ。最終的にはコミュニケーション能力と、批判的思考力が求められているのに、昨日のKEYの守屋先生のセンター試験の分析では、結局知識しか図られていない。
「このような文脈で、この単語が出てきたら、反射的にこの言葉を答えなさい。Take it for (granted)」
まるで社会がそんなように自分に求めてきているような、そんな洗脳的なアウトカムを期待しているような入試問題だ。

教育とは、知識それ自体にたいして興味を持つものであり、知識が手段になってしまえば、それは教育的ではない。

だとすると、新の教育者とは、「なぜ学ぶのか」を生徒が見出すことができるような人のことを言うのか。

なぜ学ぶかは、生徒の主体的な意味づけが存在しないかぎりは得られない。
生徒が主体的になぜ学ぶのかを意味づけることができるような教師。これが自分の理想とする教師なのか。

やはり教育は「教えて」「育てる」ものであり、教えるところで固まっているのは、洗脳なんだよな。

じゃあ英語教育で人を育てるということはどういうことなんだろうか。

自分にはそれがわからない。

だからそれを見出していこう。真に教育的な英語教育とは何か。

あと最近考えているのは、学校空間で見出されるべき社会性とは何か。倫理観とは何か。

わからないんだよなあ。

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