生きる意味はあるのか


酒飲んで書いているので、後で消します。


子どものころ、自分が生きていることがすごく怖くなったことがある。父親、母親、友達さえも、予定調和的にプログラムされているかもしれないって思ってたから。実は今もだけど。


たまたまなんらかの理由で自分が生まれてきて、でもその生まれた時点で、身の回りの人は生きていなくて、自分が何を言おうとも予定調和的にすべての言葉が返ってきている関数が仕組まれているのだとしたら、自分はこの世界で何かを残しても何の意味もないかもしれない。秒針が回り続けている時計を2時間ぶっ続けに見ながら、この時間という概念についても考えていた。この時間でさえも、この思考でさえもすべてプログラムされているのかもしれないと。


誰かと友達になって、誰かのことを知った気になっているだけで、実はそれはinputタグに値を入れると、友達という機械にjavascriptが埋め込まれていて、もう関数としてすべてが返ってくるのかもしれないんじゃないかと子どものとき考えていた。僕は君のことを好きだと言ったら、もう好きという時点で帰ってくる言葉は決まっているんじゃないかと。僕が何をしようが、答えは誰かがプログラムしているのかもと。長い人生というプログラムの中で、僕の発言に何らかの答えがすでに用意されているのかもしれないと思っていた。


サンタさんが来るときは、必ず母親に頼んだものと違うものを1日前に祈るようにしていた。もし思い通りになれば、それはプログラムに沿った世界ではないかもしれないから。案の定そんなもの頼んでも、1日前に頼んだものなど来ない。そうやって自分は世界がプログラムされていないと安心感を得ていた。今になって思い返してみれば、それすらもプログラムされていたのかもしれないけど。


大人になるにつれて、そういう妄想はしなくなったけど、結局大人になっても、人生がプログラムじゃないなんて確信1mmもない。というか、大人になるってことはわけわかんない未知のものから逃げるために、経験というバイアスが自分を守ってくれているだけ。本当に心から好きな人達が、もしかしたら自分の認識が生きていると思い込んでいて、でも実際その人は僕の知覚以外んにはどこにも存在していないかもしれないなんてことは、誰にも証明できない。社会的成功も失敗も、すべてはプログラム通りかもしれない。


誰かのためになることが、自分自身は幸せになる方法だと思っている。だけど、結局周りにいる人がもしプログラムされていて、自我を持たない機械だったら、これは自己の認識の世界で、一人じゃないと満足しているだけで、結局本質的に価値があることなど何もしていないんじゃないかと、ふとお酒を飲んだ時に不安になる。今日まで気づきあげてきたものは、実は完全にシミュレーションの上で行われたとしたら、自分の人生っていったい何のためにあるんだろうとよく悩む。


そもそも、まったくの0から生物が生まれ、地球という星になぜ自分という生で生まれて、しかもただ「生きろ」というミッションをもとでここで息をしているのかもわからない。そして、自分の周りにいる人たちがなぜここに存在しているのかもわからない。


というか、まったくの0から生物が生まれるのも意味不明だし、そもそも0を作った元祖0の存在もわからない。元祖0を作った元祖がん元祖0は?ガンガン元祖0は?


死んだ後の世界も、今生きているプログラムの世界の住人は、死ぬなっていうけど、あと自分の体の痛みという信号は死ぬなって言ってるけど、死んだあとの世界なんてもっとわからない。感覚的な無が存在しているのだとしたら、その感覚的な無とは知覚できるものなのか?知覚できる無だったら、本当に怖いな。だって、存在しないんだもん。友達プログラムがあるほうがまだ錯覚できる。何もない無が感じられる世界なら、むしろ何もない無を感じられない無でありたい。


結局、他人すらもプログラムではないと証明できないのであれば、内的な意味づけしか生きる意味を見出すことはできない。友達プログラムすら実存として定義して、その中で自分の意味をどう定義するかしか、方法はないのかもしれない。


ここでこういう無意味な記事を読んでいる人たちも、もしかしたらプログラムなのかもしれない。そして自分も同時に、誰かのプログラムなのかもしれない。

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