JMOOCシンポジウム 記録

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【京都 飯吉先生】

Open Educationの中にMOOCとOCWがあって
MOOCとOCWは違う。
MOOCは大学の授業を短くしたちゃんとした大学の授業。
OCWは大学の授業をそのままアップロードして公開しているもの。MIT発祥。

Open Educationの中には3つの書くがあって
1. Open Technologyで、Learning Management System。Sakaiなどを利用する。
2. Open コンテンツは抗議ビデオなど。面白かったのがこれだけだと食いつかないから仕組みづくりが必要だということ。また先生がこれを見ることによって、自分の授業の研究やほかの人の授業を研究することによって、授業の質を上げることができるんだよということ。

3. Open Knowledgeは、先生の知見の可視化になり、相互研修の場になるだろうということ。

MOOC自体は手段であり目的ではない。ただ、MOOCから生まれる副産物は重要。

評価方法がMOOIKでは難しい。応用的な能力、ひいてはクリエイティビティを測るには、ひとりひとりの評価が必要なためn、膨大な時間がかかる。そのため、どうしてもmultiple choiceになってしまう。

相互評価を取り入れたが、ほかのひとの成績を下げさせてしまうような要因があると、うまく働かない事例があった。

OPEN EDUCATIONは他大な授業を利用可能にするので「、学びのビュッフェ」であるが、結局昇華しない、もしくはただ昇華するだけの「学びの食い倒れ」になってしまうかもしれない。


リベラルアーツの軸を持たせるために学びの体系化が必要かもしれない。

大学教育だけが教育をうける機会ではない。カーンは大学の教育をアマチュアでも教えている。これは教育のフラット化を推し進めている。アマチュアアカデミー化現象である。

教育の進化か稀XWEBの深化=人類の進化

「反対を乗り越える」より「面白さで引き込む」

Global Education=Brain Drainになるかも。安易にやらないほうがいいかもね・

大学のOPEN EDUCATION化は均質化よりもむしろ差別化をもたらす。

適正作用の観点からPEN EDUCATIONは特効薬ではないけれども、多様な教育機会を与える点で有効である。
参考 コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E9%81%A9%E6%80%A7%E5%87%A6%E9%81%87%E4%BA%A4%E4%BA%92%E4%BD%9C%E7%94%A8%28ATI%29-178818
心理学用語集
http://psychoterm.jp/applied/education/01.html





【思ったこと】
一人一人持っている情報は多様である、。ということは一人一人情報格差がある。
そして、情報を持っている人は持っていない人に情報を与えたいという願望がある。
情報を持っていない人は、情報を持ってる段階よりの前の認識を持っている。
教師は、情報を持っていない前の状態であるときの情報がほしい。そうすると先生と生徒ではなく、お互いが情報の提供者としてコミットできるのではないか。
人に教えることは貢献菅や達成感といった失われつつある機会を居取り戻すためのプラットフォームになりそう。
そうすると先生と生徒が一緒に育つ場所、そして一緒に育つ先生よりも近い関係、そういうのいいなって思う。

教育:原始共産制的教育→資本主義的教育→原始共産制的教育へ戻った?
つまり相互扶助で教えていた教育→知識をもつものが特権として持ってないものに教える教育→WEBによって誰もが情報者になりフラット化された教育

OPEN EDUCATIONを使う層のニーズ分析
使うデバイスは?いつ使うの?どんな意気込みで?リラックス?真面目?


Technology Push→Demand Pull

Active Learning導入するにしても、その大前提でやり方w知らなければならないから、そうなると大学一年生の時にやり方を徹底的に仕込まないといけないし、そもそもモチベーションが高くないと失敗しそうだよね
「反対を乗り越える」より「面白さで引き込む」

Active LearningはGeneric Educationでは大きな効果を及ぼすが、学校型知識だとあまり効果をエアられないかも(仮説)






母校に訪問して担任と話して思ったこと。

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科目の力と指導の力、二つ大切だけど、科目の力不足だなあと痛感した。自分と同じ思考のプロセスをできるだけ可視化しても、それは一つの手段でしかなくて、生徒にとってたくさんの手段を提供することが大切なのであれば、たくさんの教育方法を持っておく、手札を多く揃えていくことが大事だなあと思った。

あと週刊朝日の雑誌、進路情報がかなり載っていて担任から借りた。これいいね。エクセルで統計とるためのネタ元としては素晴らしい。

今の年でも、たくさんの本を読み、たくさんの講演にいく先生は素晴らしいと思った。
社会学者の本の話がたくさんできて、やはりこの人は見識があるなと思ったのと、やはり知識がある人は軸があるなあと思った。自分の中にロールモデルがたくさんいることは素晴らしいとことだ。

今度は担任二人と飲みに行きたあなあ。

バズワードと自己防衛による詭弁

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Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BA%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89)によると、バズワードとは「一見、説得力があるように見えるが、具体性がなく明確な合意定義のないキーワードのことである」と定義されている。

で、自分の交友関係内でも、政治レベルの会話でさえもこのバズワードでコミュニケーションとることで、論理性を無視しているくせにそれとなく論理を持っているような印象を与えるバズワードが頻繁に使われているような気がする。
で、大体これは論理性を言葉の表面的説得力で多い、自己防衛のための理論武装として利用される。詳しくは前の記事を参照。
身近なところだと、前の記事(http://review-of-my-life.blogspot.jp/2015/03/blog-post_69.html)で述べたような「意識高い」「へん」のような、実はその定義もあいまいなのに一見共有できてしまいそうな概念だ。
「意識高い」は意識自体がバズワードで、それが使われるのも相手の努力に対する妬みを正当化するための論理武装だ。
「へん」も定義されてないし、そのへんは何らかのプラスの意味で使われることが多いが、それが明確にできない時点でバズワードであるし、そのヘンさを大体自分を含めた所属集団の優位性を誇示するために使われるため、論理が飛躍した論理武装である。
ここ最近恋人と「価値観が合う」とは何かを議論していたが、「価値観」もバズワードだな思った。そもそも「価値観」とはなんぞや。「同じものの考え方、見方をしている」ことが通例的に「価値観」を指しているわけだけれども、実際二人ともまったく何を幸せととらえるか自体違うわけだったし、その面では「価値観」は合わない。だが、お互い自分たちの違うところに惹かれあっているだから、実は「価値観が違う」lことがお互いの存在価値になっていたりするのだ。ということは、「価値観が合う」という言葉は一見説得力のあるような言葉なようで、結局「お互いのことが好き」以上の意味はないのだ。それをあたかもお互いの考え方が素晴らしいみたいな文脈で価値観という言葉が使われるのはただの論理武装だ。
バズワードによって認識を固定すると、核心部分が見えなくなる。もしほかに魅力的な人間が目の前に現れたしたらその人とも「価値観が合う」からという理由で浮気できてしまうだろう。その人の価値を、バズワードによって覆い隠してしまうから、二つの選択肢が出てきたときに、核心部分を忘れ、最善の行動がとれなくなってしまうのだ。だからそんな「価値観」みたいなバズワードに頼らず、その人自身の良さとは何か、それを徹底的に追及して言語化し認識することができることこそが、一番の幸福追求の方法だと思う。
あとはLGBT関連の話。アンチLGBTは大体「日本の伝統的家族観が破壊される」と「「同性愛者が日本を崩壊させる」とかよう言ってるけど
バズワードが、個々人の正当化自己防衛に使われ、本質を見えなくする詭弁が今、日本中でまかり通ってるし、詭弁を詭弁と見抜けない人が世の中に一定数いるのは仕方ないにしても、政治や高学歴層にいるいわゆるエリートが、詭弁に騙されているようでは結構日本危ういんじゃないのか。いい加減自分の所属集団に誇りを持つというバズワードっぽい「愛国心」から、真剣に日本の価値を見出していこうとせんと日本だめになってしまうな。




(http://review-of-my-life.blogspot.jp/2015/03/blog-post_13.html)






まず伝統的家族観とは何よ?そしてそれが崩壊するとはなによ?その崩壊する根拠は何よ?
エイズが蔓延するってあるけど、同性愛合法化したら家族制度として一夫一夫制が正式に確立されるわけだから、法的保障も来るわけだし、今まで刹那的に性行動をしてきたゲイの人たちが家庭の中に安らぎを求められるようになるわけだし、じゃあむしろエイズの蔓延の抑止力となるんじゃないの?


【Brain2.0】

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神経細胞と神経細胞の間で、シナプスが繋がることで新しい思考が生まれる。生まれてからそのシナプスを無数に作ることで、人間は賢くなる。

地球を一つの脳と考えてみる。

今まで、人間のつながりは、特定の共同体に帰属して、外部コミュニティーとの接触が難しかった。
ところがグローバル化とIT革命で人と人とが繋がるようになり、情報の早さが増した。
つまり、人間というニューロンが、IT革命という媒体によって、ニューロンのつながりを加速化させたのだ。

そしてこのIT革命は永久的に可視化され、時間、空間の制限がない、文字媒体を通してシナプス形成を可能にさせている。

人類の叡智を獲得するには、人間の頭脳同士をメディアによってつなげることで、神経回路を開拓していく必要があるだろう。

そのためには、脳のWeb2.0化をしていく必要がある。脳がシェアされ、共感され、批判され、どこでもアクセス可能にされるのである。

そしてそのBrain2.0化に役立つのがtwitterやfacebookなどのSNSサービスである。

Brain2.0を実現させるwebサービスができたらいいなあ。

Twitterはそれを可能にしてくれているが、その思考の時間的流れが明確ではないから、それがクリアになればいいなあ。

誰もが脳にアクセスして意見して新たなものが生まれる、それが手軽にできるようなSNSメディアができたらええなあ。

Twitterでできないことを調べて、それをニーズとしてwebサービス作っていけばええんかなあ。


バンドと恋愛関係のアナロジー

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バンドには3形態あると思う。


⑴人間関係だけの仲良しバンド

仲良しバンドはバンド初心者で初めてバンド組むとき、仲の良い友達を集めてやるもので、だいたい特徴として同じ音楽の嗜好性が合わない。合わないのでやってる音楽も一体感もないし、面白くない。ただそこには友情という「義理」が生まれ、その義理を全うするための音楽活動になる。

⑵音楽性だけのエモいバンド

このバンドは、同じような嗜好性を持った人が集まってできたバンドで、音楽の一体感は得られる。得られるが音楽以外のところで一体感を得ることが難しいため、そこで歪みが表れてしまうことがある。すぐ解散しやすい。

⑶人間関係と音楽性のバランスが取れている一流のバンド

友情と音楽の嗜好性が完全にマッチしているバンド。この形態まで行くとさぞかし楽しいだろう。価値観共有はバンドの一体感を得てエモさを引き立たせることができる。

で、恋愛も同じように3形態あって

⑴友達関係のままの仲良しカップル

仲良しカップルはいい意味で理性的で、相手を尊重しつつお友達のようにお付き合いする。そこに自分のエゴや強制力、ぶつかり合いはない。またエモい交わりもない。

⑵性的恋愛関係だけのエモいカップル

このカップルはとにかくエモい。感情重視である。だから方向性が会うときはエモさで深い交わりまでたどり着くことができるが、論理的に意思疎通ができないため、性的な交わりしかできない。

⑶友達関係+性的恋愛関係のバランスがとれたエモ仲良しカップル

自分の感情を論理的に、かつ感情的に相手に伝えられる最終形態。
多分この状態で結婚生活送れる人少ないんじゃないかな。


恋愛にせよ、バンドにせよ、ロジカルにエモい人になりたい。ロジエモ








感情と理性2

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人は現状に不満を持っている場合、


現状を打破するための負荷
現状を打破するための負荷を回避して変わらないようにする負荷

この二つの選択肢がある際に

多くの場合後者⑵を選ぶ。

そして多くの場合それは「幸せ」になるために上手くいかない手段であるのにもかかわらず、現状を維持しようと努力する。

例えば、ダイエット。恋愛関係。会社内のコミュニケーション。

これら全て問題があって、それが改善すべき内容であったとしても、変わらなくてよい理由を探して、理論武装をし、本人が望んでいないのにもかかわらず、後者の努力をする。

こんな話を昔アドラー心理学の紹介で読んだ気がする。

だからこそ、あえてリスクをとり、変わる機会へ身を乗り出し、フリースタイルでその場の動きに合わせて動いていく力がほしい。

それは社会学者の宮台真司さんが昔ナンパで自分の変わる力を鍛えたように

変わることへの負荷を意図的にかける努力をすることが、本当に幸せになりたい時の現状打破の推進力になるだろう。







神田 敏晶,『Web2.0でビジネスが変わる』,2006

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【要約】

Web2.0とはいろいろな定義があるが、今までの一方的な情報伝達型のweb(Web1.0)ではなく、個人個人がつながった集合知的なWebらしい。

技術の進化で、いろいろなものが繋がれるようになっているな~っていろんな人が感じていて、そんな中その進化の要素の総称をティム・おライリーという人が「Web2.0」と名付けたことでできた言葉らしい。

で、Web2.0的な要素として7つの要素があるらしくて、

まず一つ目が「プラットフォームとしてのWeb」。今まで個人が持つメディア内で情報が終わっていたけど、例えばクラウド化で、情報がすべてWeb上に保存されるようになった。その結果どのデバイスを使っても同じWebにアクセスできれば、Webというプラットフォームから作業ができる。


二つ目に、「集合知」という考え方で、「一握りの専門家の叡智よりも、普通の集団の人々によって正しいと判断考えたことのほうが案外正しい結果が導き出されるという考え方。」(p.20)って意味らしい。

【対話】

Togeterとかそうだよね。あれは無数にあるツイートの中からトピックというタグを選び出して分類することに価値があるわけだ。

【要約】

3つめは「インテルインサイド」。良質なデータをユーザーに提供できるサービスこそがユーザーに価値を与えることができるということ。

4つは「ソフトウェアリリースサイクルの終焉」

5つめ「軽量なプログラミングモデル」

6つめは「単一デバイスの枠を超えたソフトウェア」

7つめは「リッチなユーザー体験」

ここあんまりおもろくないからカット。

一方ユーザーからみたWeb2.0の5つの法則

「いつでもどこでも使える」

これは先ほどの、「人がやりたいことをやりたい場所でやりたい時にできる」ができるということだ。

「共有から価値が生まれる」

膨大情報の中から、一つの情報を選ぶことのほうが、正しさは問わず適切さの面では上だ。
で、この膨大な情報の中で適切な情報を選ぶためには、その情報にタブ=値札をつける必要があり、これを頼りに膨大な情報から情報を選ぶのである。
そして人々(folk)によってタブづけされ分類された(taxonomy)情報群が共有されることによって大きな価値を生む。これをフォークソノミー(folk+taxonomy)と呼ぶらしい。
フリッカー創業者のスチュアート・バターフィールド氏は「タグの役目は世界の総情報を整然としたカテゴリーに分類することではない。すでにサイト上にある大量のデータに価値を付加することだ」と述べている。

「企業からユーザー主体へ」

Web2.0のおかげで、ユーザーは知恵をつけ、知りたい手段をつけるようになる。
補足すると例えばジャパネットたかたみたいに一方的に情報を得るんではなく、
amazonの口コミから情報を取捨選択するみたいな。

「趣味は実益を備える」
広告、アフィリエイトで趣味の動画が再生されればお金が入る。

「マスとニッチの関係が変わる」

今までのビジネスの考え方は、売り上げの8割は2割の優良客が占めるという80:20の法則別名パレートの法則であった。
しかし、現在はWeb2.0によってコミュニケーションコストがかからなくなるため、「売り上げの上がらない8割=今まで切り捨てられていた「ニッチ層」に需要が生まれるようになる。その結果2割のベストセラー+8割のニッチ層によって需要が生まれる。これを恐竜のしっぽに見立てて「ロングテール現象」というらしい(なぜ?)



『iPhone とツイッターで会社は儲かる』山本 敏行 を読んで

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ICUでツイッターのようなやりとりが大学規模でできて、その話が共有できたらいいなと思って、前例をアナロジーを企業と結びつけてみたらどうなんだろうと思って読んでみた。
この会社でツイッターを使用するにあたって定められたのは唯一「機密情報は流出させない」であった。
で、結構なメリットがあって
まずコミュニケーションが潤滑になった。
ここで考察すると、そもそも人は人間とコミュニケーションをとるとき、何らかの共通点を探ることで、コミュニケーションの糸口を探ろうとする。天気の話なんかその典型で、普遍的に共有している内容であるわけだ。その話題はあまりにも自分とは関係ないものだと、共通性を意図的に見出した感じがしてぎこちない感じがするが、もう少し自分と関係性がある話題になれば、より深い関係性を見出すことができる。その典型なのが「下ネタ」であたり、「共通の友達」であったりするわけだ。
あとはコミュニケーションの距離が縮まるというメリットがあった。
ここで考察するとtwitterはオフラインの場合にも影響があって、それは話している人と共通性を確立することなんだなと思う。ICU Twitterと入学式で初めて会ったときの、この「こいつ知ってる」感はかなり強かったし、話題もその共通空間について話せるわけだから、かなりコミュニエーションの幅が広がる。twitterは最初の一回目の出会いの時のコミュニケーションの潤滑油としては絶大な効果を発揮するな。
後は自分の感情が伝えられるので、その感情をくみ取って適切な対応ができるというメリットだ。
ほかにも意思決定者の思考の過程がtwitter上で見ることができるので、いきなり事業の方向性が一気に変わっても末端の人たちの抵抗が軽減される
【ここから本を読みながら気に入ったところの引用】
P34 強制力のない「ゆるさ」がツイッターの特徴です。
P75 twitterにはガス抜き効果がある。。ストレス発散のための道具。
P80 要約能力がつく。








会社にiPhoneを無償提供し、twitterをコミュニケーションツールとして利用させたらどうなったのかということが書いてあった。
この本読んでて感じたのは、そもそものtwitterとは何か。人はなぜつぶやくのか。なぜブログやe-mailではなく、twitterでづぶやくのか
そういった疑問について深く考えるいい機会だったと思う。



今まで全然話せなかった人間が、途端にtwitterを導入した直後からつぶやき始めることによってその人の中身を知ることができるようになった。その結果その人はほかの人とtwitterの話題をネタにコミュニケーションに参加できるようになったという事例があった。

ICUという環境は、1学年の母集団が少ないから、大体「友達の友達」だ。だからすぐ自分との共通性に引き込んで打ち込みやすい環境であると思う。

twitter上で同じ話題を共有することによって、あらかじめ共通性を作り出しておく。そうすると初対面の人でもすでにその共通性を知っているわけだから、その後のコミュニケーションが容易になる。


例えば「頭痛い」とつぶやいていたら、上司はその後輩を労わることができる。もちろん体調管理は自己責任であるが、何も働いていないではないかと後輩にいらいらして両者の作業効率が落ちるよりは全然有益だ。


P20 ツイッターはコミュニケーションツールとは異なり、相手からの返事を求めることなく、(強制することなく)反応するかしないかはフォロワーの自由である。






河合塾の高校別東大占有率をDB化しいろいろな視点から見てみた。

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河合塾が2014年度の東大合格者数とその占有率を宣伝で使っていたので、そのデータを
DB化し、統計処理してみた。

出典はここ。http://todai.kawai-juku.ac.jp/promotion/whole-c/

まずこれがDB。上のURL以外にも所在地、公立/国立/私立、学校形態の点で分析してみた。

でまず、東大合格者数順にグラフに処理していた。


開成(54)、麻布(31)、灘(27)学芸(24)筑駒(20)西(20)栄光(20)、ラ・サール(18)・・・と並んでいく。
上位5校(同立も含む)は西を除いて中高一貫校である。高校入試を採用している併設型と、中学入試からしか募集しない完全中間一貫校にわかれるが、いずれ中高一貫教育であることは間違いない。
特に開成では高校入試では明らかに指導要領以上の内容を教えているため、実質中高一貫校でしか得られない教育内容を、すでに学んで入ってくることが前提されていそうだ。
また、このうちのほとんどが私立校であり、学費がかなり必要とされている。
そうすると、貧困層にとって東大に入学できる可能性はかなり低いと思われる。

さて、ここでさらにこの合格者のうち、何人が河合塾に通塾していたのかをグラフにしたデータがこれだ。通塾数が少ないということは、河合塾以外の教育機会によって学力を高めていることになる。ただしこのデータだけではそれが
(1)他塾に通学しているのか
(2)学校だけの力で東大に行っているのかが分からない。なので、普通教育のアウトカムを示す指標にはならないだろうから、リミテーションがあると思うが、見てみよう。






河合塾に通塾していないで、東大合格者数が多い順に並べたわけだが、

灘19%(大阪)、
桜蔭23%(東京)
浦和27%(埼玉)
ラ・サール28%(鹿児島)
西45%(東京)である。

東大合格者ランキング上位20校のうち、東京の高校は10校。そのうちで河合塾が占有率の低い学校がTOP5のうちに3校並んでいるのに何か意味があるのだろうか。
考えられる仮説は

(1) 河合塾以外に東大合格へ導くほかの塾が地方ではシェアを誇っている、もしくは
(2) 地方進学校の教育が充実している

ために、河合塾における東大合格者数の占有率が低い
と考える。

逆に占有率が高い上位5校は
聖光学院79%(神奈川)
海城76%(東京)、
栄光学園75%、(神奈川)
日比谷高校71%(東京)
岡崎高校69%(愛知)
であった。

特に海城高校に至っては、こんな進学校であるのにも拘わらず、76%の生徒が河合塾に通塾しているということに驚きである。これにプラスしてほかの塾に通っているのだとすれば、その値は80%を超えるだろう。
海城高校出身の同級生いわく、授業中はほとんどみんな授業外の勉強を自習していたといっていたので、偏差値の高い高校に入ったとしても、受験教育としての学校教育の質はさほど高くないのかなと疑問に思った。

だとすると、いくらいい高校に行っても、結局は塾にいくことで難関合格に行くのだとすれば、高校の役割とはなんぞや?と思えてくる。
学校側の視点に立つと、初期段階で偏差値が高く、また子どもを外部教育セクターに送ることができるほど裕福な過程をターゲットにすることが進学実績を増し、またその結果高校の価値を高めていくことになるだろうから、そのような戦略を練ることが生き残るためには必要になってきそうだ。
つまり、これから訓練して人間形成していくのではなく、もともとハイスペックで裕福な人間を集めることが生き残りのために必要になるのか。


もちろん点数化できない教育を施すことが、普通学校の使命であると思う。
問題点はそれをなおざりしに、受験指導で集客している私立校が、合格実績をこの受験用知識の教育アウトカムが外部教育セクターに依存しているという構造が明確にしていないで、自分の学校の実績としているのは欺瞞である。
問題であり、欺瞞であるが、それは学校の責任ではなく、教育改革の問題であるような気がする。

教育の市場化をおしすすめたから、目に見えるアウトカムを出さないとし市場原理によって学校が淘汰されてしまうわけだから、それは必然的にそうならざるを得ないと思う。

だからここ最近ずっと言ってるけど、教育は市場化させては絶対ならないドメインがあるはずで、それは公的な保護を与えなければならない。

『目立つ力 インターネットで人生を変える方法 勝間和代』を読んで

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『目立つ力 インターネットで人生を変える方法 勝間和代』

近所のブックセンターいとうで、100円だったので、5冊くらいまとめ買いした中の一つ。

インターネットで、自己発信していくことの意味、またどのようなブログを書くべきなのかが書いてあったので買ってみた。

この本を買ったのは自分の言葉の言語化という作業に、しっかりとした意味を持たせたい、説明できるようにしたいと思っていたので、ほかの人の視点を取り入れつつ考えをまとめてるために選んだ。

書いてある内容は、最初の方は面白かったかな。後の方にはブログの作り方、アクセス数の増やし方とか、いい記事の書き方だとかが書いてあったけど、思考の整理という面でこの本を買ったので、後半は流し読み。

前半にすごくいいこと書いてあった。
ブログを書くということは、自分の考えを言語化し、それをほかの人に見てもらうということだから、アウトプットのよい練習になる。彼女はこれを「思考の公開訓練場」と呼んでいる。で、これはいい言葉だなと思った。
内省的に自分の言葉を見て、言語化することで、その思考の奥深くにまで入っていける訓練であるし、それをほかの誰かにもわかる形で批判の目にさらされる可能性があるわけで、まさに公開訓練だ。

あとは、勝間さんは「自己承認欲求をうまい形で昇華するためのツール」といっていて、普通自己承認欲求を昇華できていないと、人に文句を言うという形でゆがんだ自己承認を求めてしまうものだから、そうならないためにもブログというのはよいツールだと述べていて、確かにそうだと思った。

自分は自己承認欲求が強い方なので、こういう形で昇華できるといいたいことを言えるし、いい場所であると思える。
自己承認欲求が強いことを、子どもっぽいとかマザコンっぽいとか、ネガティブな形に形容されがちだけど、これはあくまで人間の特性なわけで、それはプラスとマイナスの面を持っているから、その自分の特性をうまい形で社会に還元できるようにすればいいかなって最近は思うようにしている。
伝えたいことがあって、相手に表現できるという能力があれば、その自己承認欲求はプラスに働くわけで、よいモチベーションになるはずだし、その伝えたいことを相手に還元できる形にすればいいわけだ。

少し話を広げて、ここ最近思っていることで、人間の性質には必ずプラスの面とマイナスの面があって、マイナスの面にばかり目が行きがちだ。それを批判的にかつ客観的に分析してなんらかのアクションをとることは大事だけれど、昔の自分のようにそれを能力に起因させて、自分は何もできない人間だと思い込んでしまっては、改善の余地もないわけで、しかも健康上よくないから、そのプラスの面をさらに開花させて、マイナスの面もきのう読んだ藤田さんの本のように仕組みと習慣によって補正していけばいいのだ。その仕組みと習慣化することができる力こそが能力であるわけだから。

勝間さんはブログを「集合名刺」と呼んでいる。その人の過去から現在にいたるまでの思想などが、人に見える形で書いてあるわけで、またそこから人とのつながりが生まれるから、確かに名刺だなと思う。

で、これを読んでて思ったことなんだけど、ここに自分の思考だけではなくて、自分の研究も書いていくことで、それを他者に可視化できるのであれば、それこそもし学会の教授に会う機会があって、これを名刺変わりに利用することができれば、かなり意味のあるものになるなあと思う。
いわゆる人脈づくりのツールとなりえるわけなんだねえ。

最近まで、人に見える形で「私こんなに頑張っています」っていう人(=いわゆる意識高い系)を見てて、違和感を感じたけど、自分の能力アップと、自分を売り込む力っていうのは、昨日の藤田さんの本の話で、「契約社会化」している世の中では、それは「人間力」の一部であるわけだから、自分が幸せにいきる上でのチャンスをつかむための手段なのだなと思った。
ただあくまで人に見られることは自分の思考の公開訓練するための手段であって、目的が自己承認であるのとは別であるってことを常に意識します。あくまでも言語化と思考をクリアにて、複合的な生成概念を生み出すことにフォーカスしているから。

あ、そうか、「意識高い系」が嫌われるのは、目立つことを目的にしているから違和感を感じるわけで、目立つことで自己承認欲求を満たす以外のなんらかのアウトカムを得ることを目的にしていないことに違和感を感じるのか。

であるならばこのブログの目的は
(1) 思考の整理
(2) 過去の記憶の忘れないようにとどめておく忘備録
(3) 思考を洗練して高次の概念を生成する
ってことにフォーカスして、
(4) 自己承認欲求を満たす
のは(1)~(3)を満たすための手段として(=動機)として位置づけよう。

Twitterもそのためだなあ。考えてみれば。

『「ビジネス基礎力」養成講座』 藤田 聡 を読んで

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『「ビジネス基礎力」養成講座』 藤田 聡
【要約】
若者のビジネス基礎力が独自のテストから低下していることがわかった。
現代は、企業のみの能力ではなく、個人の能力の方が評価されるようになった。というのも、企業と個人の関係が
貴族関係から契約関係になってしまい、終身雇用から個人の能力によって捨てられてしまう時代になったからだ。
ゆえに個人のビジネス基礎能力が今必須条件となっている。
このビジネス基礎能力とは、アメリカの心理学者デュセイが提案したセブンレイアーズモデルであり
1体力維持管理能力
2潜在的能力
3パーソナルバリュー能力
4パーソナルビジョン能力
5.パーソナルストラテジー能力
6リーダーシップ。マネジメント力
7情報収集能力・異文化適応能力
に分かれる。

VALUE(価値)、VISION(目標)、STRATEGY(戦略)が概念化能力(conceptual能力)である。
VALUEは自分の価値観で、自分軸のことである。一方VISION(目標)は自分が達成したい具体的な目標である。
そしてその目標に到達するまでの道筋を設定するのがSTRATEGYである。

【その他興味深かった言葉】
能力とは、習慣形成の力である
習慣をつける力=成長痛っで、これを味わうことが必要
キャリア設定には、あるべき自分の姿をできる明確に設定し(VISIONを明確にし)、そこからやるべきことを設定する(STRATEGYを明確にする)そのさい、「日常行動の仕組み化、習慣化」を行う必要がある。
目標や目的を明確にすることによって、モチベーションを持続させる。
スピード重視、仕事の出来は7割りでよい

【感想】
自己分析になるが、たぶん自分の中で価値観形成はかなりしっかりしているが、今後のことを考える目標設定、またそれに向かう戦略、また行動の習慣化がうまくいっていないの点に問題点を感じた。今やっている言語化は、自分が言いたいことをうまく伝えられないといういらいらから続けているけど、例えばこれをもっと高次の目標に持っていけないのか、と考えた。
だから今やるべきことは明確な目標設定、そして自分がどうなりたいのかをしっかりと思い描く、そしてそのために今の自分を客観的に分析する時間が必要だということだ。
あとずいぶん前の記事に書いたけど、能力が足りないことを先天的なものと起因するのではなくて、仕組みと習慣によって変えていく必要があると思った。
あと、こういう経営学の用語って、もしかして人によって使い方違うのか?共通することばなのかってところが疑問。

バーに一人で特攻してお酒おごってもらった

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何かを始めるときに少しでも戸惑ってチャンスを失う人間にはなりたくないから
一人でバーにいって誰でもいいから人に話しかけて、あわよくば外人さんと英語で話すのを目標に
国分寺のバーに行った。
最初はインド人にカースト制度のこと聞きたいからインド料屋に行って英語でインドについて教えてくださいといったら嫌な顔されたので無言で帰った。
しばらく店を探しているとクラブで流れているような大音量のEDM流れているバーがあったのでそこに入店。
もちろん席はカウンター。カウンター席には中年男性3人。どう考えても話すネタがない。
そこで困ってとりあえずカクテルを注文。キウイと炭酸がよく聞いた、おいしいお酒だった。
隣のおじさんが話しかけてくれて、仕事の話だとかいろいろ聞いた。技術職だったが、管理職に移され、技術職の仕事をやりたいという話をしていた。話が面白くなってきたのでビールを注文。その後若き日の青春トークになる。過去はけして変えられないけど、大人になってもその時からやり直したいと、ふとお酒を飲んだ時に思い出すそうだ。
あとあのころのリビドーは決して、大人になってお金で満たすリビドーとは、質的に違うのだ。遠い向こう岸に行ってしまった、あの人との約束だとか、かけひきだとか、景色とかは決して今の、世界を知り尽くしてしまった大人の脳ではもう味会うことができないんだって思うと、歳をとることは感覚の感度がどんどん低くなるんだって思ったのと、そんなおじさんと話している自分でさえもあの時の気持ちの高まりを思い出したり、再現できなくなっていると考えると、歳をとるのは死に近づくことなんだと実感した。

世代は関係なく、小中高の異性との記憶は話のネタになる。世代に関係なく共感する内容だ。
話のネタをいくつ持っていっても後悔することはない。

その後隣で後から入店したで本を読んでいる若い男性に話しかけてみた。柳田邦夫と河合速雄の対談形式の本で、面白そうなのでその本について聞いてみた。
話を聞いてみたところ、彼は教育学部出身で、今は学童保育の主任をしているそうで、そんな進路も教育系であるんだなと思った。
その人に、帰り際にお酒をおごっていただいた。ラム酒のXYZという、柑橘系で度数強めのお酒なのだが、ラム酒独特の飲んだ後のアルコールの味が、柑橘系の味で中和されていて、すっきりとして飲みごたえのある味であった。

やらずに後悔しないで、やって後悔したい人生だから、なんかほかにも漠然とやってみたい。
で、今日思ったのはやることへの抵抗感は、やった後の困難を想像するからできなくなるので、とりあえずやるとこまで頑張って、後はその場の流れにに体をまかしておけばうまく行くんだなってことでした。

若林と山ちゃんの「足りない二人」を見て

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若林と山ちゃんの「足りない二人」というコンビを見ていて思ったこと。(ちなみにコミュニケーション能力を鍛えるために、お笑いDVDを借りてみていた。)

「ネガティヴな状況」には、必ず「打開策」が含まれていて、そして共感を生む種があり、それらをうまく表現することに大きな価値(笑い)が生まれるということに気付いた。例えば、飲み会で説教されそうな時に若林のとる「打開策」が、床に小銭をたくさん落として謝りながら拾ったり(彼はこれをまきびしと呼んでいてとても面白かった)、飲み会を早く終わらせるために「デザート行きましょうよ」とさりげなく言ったり。そういう、誰でも同じように起こりそうな「ネガティヴな状況」の中で、なんらかの画期的な「打開策」をとり、それを「お笑い」に昇華する技術に感動した。

他に構造を転移できないか考えてみる。

これは根本的に「自虐ネタ」の構造である。つまり、自分の弱さを(ネガティヴな状況)を弄ることでお笑いに昇華するのである。
自虐ネタをできる人間は、個人的にすごく人間味があると思っている。それができるこそ一緒にいて面白いと思える人間なわけであるし。そういう人はとても価値があるなと思う。

世の中の価値のある発明品は全て同じ構造でできているのではないだろうか。
空が飛べないから、飛行機を作った。
その結果多くの人がいろんなところへ行くことができるようになった。
遠くの人ととすぐに話せなかった。だから電話を作った。その結果世界が身近に感じ取れるようになった。

これまでの価値のあるものは、みな「ネガティヴな状況」に目を当て、その打開策を練ることで、大きな価値あるものを作ってきたんだろう。

だとすれば、お笑いであれ、マーケティングであれ、価値あるものを作る能力は、いかに世の中の不条理に敏感に察し、そこから打開策を練り出す力であると言えるだろう。

だとすれば、世の中のネガティヴに目が行く人間は、大きな価値を見出すことができる人間だと思った。その人がしっかりとした打開策を見出す能力さえ身につければ大きな力になるのではないかと思う。


『女子高生の裏社会 「関係性の貧困」にいきる少女たち』を読んで (仁藤夢乃)

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【要約】

女子高生が性産業に従事する層が、貧困層(経済的に困窮していて働かざるを得ない層)、困難層(家庭からの愛などを受けることができない層)、安全層(単純にお金稼ぎだけしたくて従事している層)がある。
で、今までスカウトなどによって訳ありな少女たちがこの産業に従事していたが、それ以外のなんの問題のない層もSNSなどから簡単に参加する機会が得られるようになってしまっている。
この安全層、貧困層、困難層の中で共通して問題となっているのが、「関係性の貧困」である。これは、普通家庭や学校などで得られる人的、制度的関係性を得られないために。必要な知識や、愛着を得られないという問題である。そして「関係性」を餌にすることで、売春業は女子高生を働かせていることに参加させている。衣食住(つまり経済的支援)のみではなく、家族の中で得られない人間的つながりを強く女子高生に印象づけることによって、女子高生に居場所を与え引き込んでいるのである。

【感想】

経済的背景以外にも、「関係性の貧困」という概念で社会構造を説明しているのが興味深かった。
この関係性の中で、親子間の愛着であったり、社会の知識、善悪の判断などが世代間につたえられるのであるならば、
経済以外の親の教育力で貧困は決まってしまうのかもしれないなと思う。で、そういった「関係性」の隙間にうまく入り込んだ
性産業をうまく描けていると思った。つまりこの性産業と女子高生の「関係性」の中で伝達される文化は、性産業に都合のよい知識であり、
またその文化を女子高生が内面化することによって、自分のおかれている不利な状況にたいして無自覚にいてしまう構造が見て取れた。
仁藤夢乃さんのそういった「関係性」を与えるボランティア活動に深い感銘を受けた。

「意識が高い」や「ヘン」のような「抽象言語」の持つ暴力性

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「意識が高い」と「ヘン」という言葉、これがICUに入って以来一番自分にとって目的を追求するにあたって邪魔になっている言葉である。「意識」とか「ヘン」などの言葉には、言語的に何の指示性がない。なんの指示性がないのにも関わらず、その言葉の定義を知らないままなんとなく気に入らない相手に使っているような暴力性を感じる。

「意識が高い」という言葉を使うとき、その中で揶揄されている内容は、(1) 客観的な事実にたいしての評価なのか、それとも(2) 相手に対する個人的な感情なのかがあいまいだ。
「意識が高い」という言葉の持つ一番の欺瞞は、(2) 自分の相手に対する個人的な感情なのに、それを(1) 客観的な事実にたいしての評価のようにその言論を流布することだ。

例えば、頑張れない自分に対しての妬み(2) を、頑張っている相手に対して妬んでいるといえないから、そのような抽象性かつ客観的に見える言葉で相手を陥れようとしている(1) 場合である。
もちろん多くの場合、このような次元の低いレベルで使っているのではないだろう。
仮にそうだとして、相手を批判的に評価する場合、礼儀というものがあると思う。例えば「意識が高い」という言葉を「確かに一生懸命やっているけど、結果を出していないよね」と客観的な事実で評価するならそれは妥当な評価だ。言われた本人もその客観的評価(2) には納得できる。「意識が高い」だけでは、なぜか意識を高く持つことに対して批判されるだけで、それは失礼極まりない。

(ICU生は批判だけは立派な人間が多い気がするが、礼儀があって的を得た批判をしている人はあんまり見ない気がする。人のこと言えた立場ではないけど。)

似たような言語で「ヘン」がある。EthnocentricなICU生は、自分たちが他大より「ヘン」と呼称することが比較的多い気がするが、何が「ヘン」なのか、言い換えればどんな事実が「ヘン」なのかを言語化して説明できる人間は少ない。
にもかかわらず、何がヘンかもわからない人間が「ヘン」という言葉を使い、自分たちの所属アイデンティティに優位性を感じるのであれば、それは戦時下のドイツと一緒だ。
言語化できない、その程度の「ヘン」なアイデンティティならばそのへんの大学へ行こうが、中学生の集団だろうが、どの集団でも、同じように自分たちが「ヘン」というだろう。(2) 「ヘン」という所属集団への優位的な感情を(1) 客観的に見えるがなんの指示性のない抽象的な言語「ヘン」で自分たちを正当化しようとしている、そんなプロセスが見て取れる。

そういった「ヘン」さになんとなく優越感を持っている人間や、望ましくない内容を事実、感情を区別せずに「意識高い」と形容してしまうような人間の使う言語の非抽象性に、暴力性を感じる。

そしてこの記事を書いたのも、そういった言葉で万が一形容されるようになったときに、たたその抽象性の前におびえず、しっかりと軸をもって応えることができるようにするためである。

能力の偏りとその向き合い方

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尊敬する人間と話していて、彼が言っていたことと自分の思ったことをつらつらと。


人間得意不得意がある。
また短所と長所の価値判断は流動的だ。自分からの判断と他者からの判断も大きく異なることが多い。


自分なら言われたこと忘れる。鈍感。相手の気に触ることを平気で言ってしまう。
で、これは人間の能力の偏りだ。これだけ悪いことがあっても音楽で人に感動を与えるような価値を作れる長所もある。思考で人を納得させることができることもある。(あえて謙遜をしたいけどしないで言っておく)

人間の能力の総和はみな等しいと思う。だけどその配分がみな違うのだ。アインシュタインは数学の能力にパラメーターの全てが振り分けられたが、それ以外はほとんどなかった。一方で、なんでもできて何も新たな成し遂げられないと悩んでいる人は、実は均一に能力が割り振りられている。能力が高く振り分けられているのが長所で、振り分けられていないのが短所だ。

能力が均等に分けられていればなんでもできるのを長所の面でみることもできれば、何も人より秀でたものがないっという短所にもなる。
逆に一つのことに固執して能力が高ければそれは短所であり、それ以外は短所かもしれない。
ある程度そういう風に、世界はバランスよく分けられている。(その能力の振り分けに特定の価値があることは否めないが。)でもそういった長所短所に目がとらわれるのは、隣の芝生は青く見えるからだ。なんでもこなせる人間は、一つのできる人間を妬み、一つのことができる人間はすべてのことがこなせる人間を妬む。それは仕方ないことだ。

問題は自分の中にある、具体的な長所と短所があることを認識したうえで、そこでどう自分の長所と短所を活かしていくかだ。
長所においては、謙遜しない。ある程度の謙遜ならいいが、強すぎると長所さえ自己否定になって身を押しつぶすからだ。謙遜は社交辞令と割り切ればよい。ただし長所を比べる対象は高く持つ。上を目指さなくなるから。
短所にかんしては「脳の癖」だととらえるとよい。それはその行動を止める「仕組み」があればよい。
よくあるのが、短所を自分の価値と繋げて自己否定に陥ってしまうことだ。自己否定のままでは、変わることはおろか、変われないままの自分をも正当化してしまう。望んではいなくても、意図はしていなくても、それは望ましさのためへの努力ではなく、繕った正しさへの執着だ。だから短所を先天的無力さとして認識するのではなく、それをいかにかえるかという仕組みに執着すべきだ。この仕組みを通して、治らなくてもよいから、その短所を補正する努力が弱点を補うことになるだろう。

論理と感情

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英語科教職界隈と話していたこと。
説得力には論理感情のバランスが必要だ。
正しさ(論理)だけでは人を動かせないし、望ましさ(感情)だけでも人を動かせない。
自分が本当に尊敬している人間は、みな説得力がある。その人が目指している世界(望ましさ)があって、それを実現するための正しさの根拠がしっかりしているのだ。

逆に、なんか違和感があるなって思う人は誰なのか。それは論理と感情のバランスが取れていない人だ。
人間、あまりにも正しさに固執するようになったときは、自分の望ましさを守ろうとしていることが多い。友達の言葉を借りれば「理論武装」しているときが危ないのである。
なぜなら、理論武装しているときは、ほとんど自分の望ましさに真摯に向き合っていないからだ。

正しさに固執する人間は、望ましさのために今ある自分の認識が変わることや、望ましさのために使う労力への抵抗感に耐えることができないのだ。だから変わらないために正当化をし続けるのだ。この時に望ましさを無視して正しさに執着するのだ。しかも多くの場合、正しさに固執していることに気づかないまま。(正しさを望ましさと勘違いしたまま)

子どもたちを幸せにしたいと思っている(望ましさ)のに、賃金がこれだけだから仕方がないと気持ち少し手を抜いてしまって、正当化する。

このままの関係でなく、もっと深い関係でいたいの(望ましさ)に気持ちを打ち明けられない、片思いをしているときは、望ましさへ向かう力をいろいろ言い訳して正しさで正当化してしまう。

渋谷の、子どもたちの未来を思う主婦たちは(望ましさ)、すべての子どもたちが幸せに暮らせるようなLGBT政策について、性的マイノリティーは制度的に問題だとあれこれ理由をつけて正当化する。

日本をよくしたいと思っている首相は(望ましさ)は、国際競争力を得るために奮闘し、憲法改正、集団的自衛権の容認に燃え、望ましさから離れてしまっている。

説得力を増すには、真摯に自分の本当の感情に向き合って、そこから論理立てていくことが大事だ。そして、いろんな論理があるときに、自分の望ましさに近づくためだったら、正しさの認識を変える、変わることへの勇気を持つことも大事だなと思った。、

モデルやフレームワークを持つことの大切さ

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友人が言っていたのだが、「教師として教えているときに意思決定を行わなければならないときに、すごく迷うことがある。そんなときに自分の尊敬する先生だったらどうするべきかを考えると、ふさわしい行動をとることができる」らしい。
自分の中に意思決定のフレームワークが複数持てると、困ったときに確かにすばらしくうまく機能するなと思った。

ここ最近の自分の教師のロールモデルは
明石家さんま某NPO元代表
明石家さんまさんはコミュニケーションのロールモデルである。こういうときどう相手に伝えれば面白おかしくできるかな、というのを動画みて研究していると、その人のフレームワークでものを見ることができる。いじるときにはその人をいじるために情報を必ず頭の中に入れておく。人を傷つけるようないじりをしない。そういったところに、人とコミュニケーションをとるうえで相手をしっかりとみること」で「気持ちのよいコミュニケーションをする」というところに徹している彼の行動のフレームワークが見れておもしろい。

某NPO代表は、相手が問題を持っているときにどう対処するかの点でものすごく学べることが多い。普通だったら「使えないな」「努力しろ」で終わらせてしまうところを「このような努力をすれば解決できる」といった形で提示している。解決するためにはどうすればいいのかというところにこだわりきって、論理にこだわりきって、人に伝えることができる。
これは生徒指導においても、ただやみくもに努力論に走りがちな教師にとって、問題の徹底分析フレームワークを持って対処できれば、生徒を正しい方向に持っていくことができる。

尊敬できる人間の、どこが尊敬できるか、どういう考え方をしているのか、そのフレームワークを自分の中に持つことで、場に応じたふさわしい行動をとることができるのではないかと最近思った。

あと、人だけじゃなくて学問も。

社会学も経済学も、問題を学問的フレームワークによって観察するすべを与える。
もし教育という事象を観察するうえで、社会学の視点を得ることができなければ、何がどのように問題なのかを考えることができない。データ的分析方法を知らなければ問題を観察することは不可能である。心理学も、倫理学も同じように世界の見方を与えてくれる。ビジネスでは目標、成果目標など、言語で区切りフレームワークを与えることで何をするべきかが分かる。
その見方を最大限にまで広めるものがリベラルアーツであると思う。

音楽と言語の関連性

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生まれて、小学一年生からピアノ、ドラム、ギター、ベースを続けてきて今年で20才になるが、言語の習得と音楽の習得とはかなり同じプロセスをたどっているなと気づいた

言語は、生まれたときにすでに環境にある。しかし環境にあるだけでは習得できない。実際に発話しなければ話せるようにはならないし、理解することもできない。

人が話した内容を一つ一つ全部覚えて、それ通りにオウム返しをするわけではなく、その構造を認知し、自分で文単位に生成する能力を後に磨き習得していく。

より多くのボキャブラリー、また雰囲気における言葉の使用などの、語用論的な意味での知識を多く持っているほうが、よりよいコミュニケーションのレベルに高めることができる。

そのうち、その言語知識は人が決して使ったことのないような形に折り合わされて、芸術に昇華されていく。詩、物語、お笑いのように、意思疎通以上に芸術としての言語使用に高められる。
このような芸術も、いままでどんな環境に自分がいたかで、その人の芸術性は変わってくる、

音楽も一緒だ。生まれたときから周りにあるものだ。音楽は聞くことは誰でもできる。でも、自分で音を出そうとしなければ音楽はできない。

子どものころはかえるの歌とか、童謡とか、いろいろな歌を歌うことで少しずつ音程が良くなっていく。

しかし曲を作りたいときに、今までのようなおうむ返しでは決して新しいものを作ることができない。その音楽の構造、フレーズなどの知識と、コード進行のような語用論的な能力が習得され、自動化されてはじめて、その構造に意図的な転移を起こせるようになる。

既存の音楽からしか新しい音楽は生み出すことはできない。それは言語学習者が自分の母国語を知らないまま第二言語を習得できないのと同じことだ。

だから音楽を作曲する場合、いろんな曲を体の中に内面化して、自動的に取り出せるようにして、そこに操作可能性を見出すことがとても大切であると思う。音楽が無意識の中に内面化され、その場の雰囲気にあったメロディを言語のように話すことができるようになる。これが音楽におけるコミュニケーション、つまりセッションだ。

だから音楽も言語も習得するには、より多くのボキャブラリーと語用論的な経験を内面化し、自動化し、アウトプットする訓練をするのが一番よいのだと思う。幅広い場にもっともふさわしい物を選び出す、そういうった能力がコミュニケーションでも音楽でも必要とされているのだなっと思った。

教育の二つの知識

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先日小学校からの友人で、彼は小学校の教員志望なのだが、
教育には二つの知識があるという話をしていた。
一つは「できる」型知識。これは暗記や応用を行うことで問題を解くために学ばれる知識である。この知識は「学び」型知識と共存して学習されるものである。「学び型知識」とは、ある公式を丸暗記するのではなく、例えばその公式がなぜできるのか、また得た知識をいかに身近な世界に応用することができるかという知識である。今回はこの「できる型知識」と「学び型」知識を

(1) 一般教育と塾型教育における視点
(2) 授業内実践でおける視点
(3) 教育改革における視点
で述べてみたい。

(1) 一般教育と塾型教育における視点で、「できる」型と「学び」型知識を考えてみる。塾型教育では「できる型」教育が重視される。それは受験という目標のために、評価されるのが、点数化の可能な「できる」型知識であるからである。一方普通学校(公立私立校)では、段階にもよるが、より本質的な「学び」型教育が重視される。
初等教育教職課程を履修している彼から聞いた話によると、彼の習っている先生で、「塾で習った公式を使いたがって、学校でならうような式の過程に興味を持たない生徒がいて困っている」といっていた人がいたらしい。例えば、三角形の面積を求めるためにはどうすればよいのかと考えさせるときに、すでに塾に行ってしまった生徒は[底辺×高さ÷2]という公式を知ってしまっている。もしこの時教師が「おんなじ面積の三角形を組み合わせれば長方形になり、そうすると底辺×高さという既知の知識から応用して答えを出すことができる」ということを望んでいたたとしても、答えの出し方を知っている生徒からしたらそれはめんどうくさいことであり、学びの喜びにつながらない。
つまり塾型教育は「できる」型知識を教えるのだけではなく、普通学校型の「学び」型知識と比較した価値観形成を助長していると考えることができる。この話をしたときに思い出したのが自称進学校の話だ。
自称進学校は、進学校まがいなことをしているが実績を上げられていない学校だ。この学校は進学実績を上げるために「できる」型知識を自前で提供しようと悪戦苦闘しているが、この「できる」知識は正直に言うと、受験世界を知り尽くしたプロの塾講師の足元にも及ばないことが多い。だから学校を途中でさぼって学校に来なくなってしまう生徒や授業中に内職ばかりしている生徒が出てくるのは当たり前なのである。
ただ自分が問題に思うのは、この「できる」型知識が優先された結果、高校で学ぶべき「学び型知識」が生徒からも学校からも軽視されてしまっていること(受験勉強に熱血指導しているがほかの人格的なことが足りず、「文武両道」というあやふやな言葉で片付けられたりだとか、「高校の授業=意味のない授業」と受験というコンテクストでしか生徒が教育を見なくなってしまうということ)にあると思う。この点では制度的に従属しえなければならない自称進学校それ自体が被害者なのかもしれないなと思った。

(2) この二つの知識を教えるうえで、大切なこと。それは「学び」型知識の有用性を、先生がちゃんと子供に伝えられるか否かである。これは僕の友人が言っていた言葉であるが、実際そう思う。僕が高校のころ学校に行かなくなってしまったのは、学校の教育が自分にとって何の利益があるのかわからなくなってしまったからである。つまり、高校が予備校よりも劣化した同じような授業をいくら提供しても、それはあくまでも劣化にすぎないのである、
でも、思い出してみれば聖書の授業にはほとんど必ず出ていた(記憶が正しければ面白くてサボらなかった)記憶がある。それは「信仰」という生きる上ではとても身近で、学ぶべきものだと思っていたから勉強していた。このような受験産業とは差別化された内容の知識ならともかく、受験産業と同じような科目で、質の低い予備校教育をしても、そこにはなんの利益もない。
でももし学校がテストとは関係なく、身の回りの内容に関連させたり、そういった高次の応用能力に結びつけるような教育であれば、学校の教育は生徒にとって意味のあるものにある。学校は予備校の物まねではなく、もっと学校でしかできないような道で教育の質を勝負するべきだと思う。(例えば数学ならもともとの公式の作り方とか)

(3) 教育改革において、やはり目に見えやすい「できる」型知識にはお金がつぎ込まれやすい。PISAショックの件もそうだ、PISA型学力を形成するために政策を変えた。一方定量化しにい「学び型知識」に関しては教育支出がかけられにくい。なぜなら、リスクにたいするリターンが、人間性というよくわからないリターンで帰ってきても、数値化できないからである。これを顕著に表しているのがゆとり教育問題である。ゆとり教育で放課後の学習を広げようとしたのに、PISA型の学力が低いせいで、批判され修正された。ゆとり教育で得られた「人間性」なるものがいまだ評価されていないのにもかかわらずである。
ここで二人で議論したポイントはこうである。
僕の意見は「学び」型が定量化されなければ、国はリターンとして何が帰ってくるかわからないから教育支出できないとするなら、もっとそのあいまいな人間性のようなものを定量可能なように努力すべきだというものである。
一方で彼は
そっもそも「学び型」教育とは、知識型と違って数値化できないからこそが学びであるのであるからそのようなことをすること自体がナンセンスだ
という考え方である。
で、僕は彼の考えに大賛成した。そのような人間力は数値化できるものではないと思うのである。
ただし国は経済でしか教育を見ていない以上、いかに国を動かすために「学び」型知識を優先して教えるようにすべきかが、疑問に残る。

ICUの推薦生は、本当に一般入試で入学した生徒よりも学力が低いのか。

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【問題設定】 推薦生は、本当に一般入試で入学した生徒よりも学力が低いのか。

推薦入学で合格した大学生から話を聞くと、一般入試の生徒よりも劣等感を感じていることが多い。ここで、その劣等感をある特定の学習能力の格差に起因するとする。そして学習能力が推薦生は一般生よりも持っていないため劣等感を感じるということになる。
ここで考えられる能力について二つに分類したい。

一つは学校成績型能力。これは学校の成績をとるための能力であり、具体的には定期テスト内容を推測したり、学校の成績をとるために予習復習をしっかりと行い、短い期間で内容を暗記しテスト内でアウトプットする能力や、出席数、提出物、意欲関心態度によって点数化される能力だ。そしてこの能力を保持しているのは学校の成績をとるために奮闘していた推薦生だと思われる。

もう一つは一般入試型能力で、これは様々な知識を統合し、記述したり、知識を選択させるような能力で、大学入試テストや模試によって点数化される。そしてこのような能力を保持しているのは、一般入試を経験した人間だと思われる。

ただし両者の能力はオーバーラップする能力があり、また具体的にどのような内容が両者のテストで評価されやすいかについて具体的に提示していないため、厳密さには欠けるが、大きく分けてこの二つに分類した。

【仮説設定】 大学のGPAの点数をとるにあたって評価される能力は、「学校成績型能力」のため、推薦で入学してきた生徒のほうが、大学における成績を示すGPAは高い。

大学における成績の評価基準は、3カ月という短い期間で大体の場合出席点、提出物(レポート)、プレゼンテーション、授業での積極性、テストで測定される。そのためここで測られる能力は「学校型能力」と考えてよい。
そうだとすれば、大学成績基準は学校型能力を基準に成績を決めているので、その能力を持っている推薦生のほうがより親和性が高く、それゆえGPAが高いのではないのかという仮説を立てられる。この仮説をもとに、
学校成績型能力を持つ推薦生の生徒は、予習復習をしたり、時間を守ったりできる
という仮説を立てる。この二つの仮説を検証したい。

【変数設定】

まずICU生であるかいなかで「ICU生」、「その他」で分けた。けど後で別々に計測するのめんどくさいからやっぱり一緒にして計算した。

被説明変数として「一般生」と「AO入試生」「推薦生」「指定校推薦生」「その他」に分類した。今回ハイあがりを考慮せずに特別推薦枠を用意しなかったため、彼らは指定校推薦生、その他のどちらかに振り分けた。

また説明変数として[GPA]、[授業の予習、復習] [出席率] [ 遅刻率 ] を設定した。
今回の研究で、研究者のやる気がないことから、各種推薦変数別に説明変数との相関を示すのはやめた。それゆえ、一般生変数と各種推薦生変数をまとめ、推薦生変数として従属変数と設定し、比較を行った。
ちなみに研究者は3日前に従属変数とか回帰分析とか名前を覚えたばかりで、使ってみようとうずうずしていたため使っているが、実際はよく意味はよく分かっていないためファッション研究者だということを思慮に入れてほしい。)


【分析方法】

人間として恥ずかしいくらいのような数学処理能力(2012年度数1,Aセンター48点)しかないため、能力相応な小学生でもわかるような棒グラフで割合にして統計処理を行った。

今回の分析では一般生と推薦生全体で比較をし分析をする。
アンケートフォームはgoogle formを利用し、googleのスプレッドシートに統計をまとめた。
対象者は私の身近なお友達や、SNSでのお知り合い、Twitterでのリツイートで調査に協力してくれた人など、標本としては無作為だが結果としてかなり偏っていると思われる。(というのも回答者の多くがICU生や教職界隈であったりするからである。)
また各変数の母数に大きな差があるため、それを比較することに多少の困難があると思われるが、細かいことは気にしないで強行した。(ACADEMICに語るにはあまりにもデータの信憑性はない)

【(9割主観、1割客観的な)分析結果】



まず一般生と推薦生のGPA比較だが、推薦生のほうがGPAは高かった。これは仮説どおりである。





予習復習の頻度は、両者ともに大きな差が見られなかった。また両者ともに過半数以上が予習復習に時間を割いていないことが発覚した。
これは大学に入っても予習、復習の習慣が身に付いていないダメ人間であるということだ。一般生でも推薦生でも変わらず、小さいころから「予習、復習はしなさいよ」としつけられていたのにもかかわらず、いまだに習得できていないので、小学生からやり直さなければならないということがわかる。
またICU生が忙しそうにしているのも、予習、復習ではなく、結局は勤勉なのではなく課題に追われているだけで、タイムマネージメント能力のかけらもないことが証明された。



一方、大きな相違を見せたのが遅刻、欠席の頻度である。推薦生は遅刻や欠席の頻度が低いこと、また遅刻しないと答えた層が、一般生の2倍近くあることから、仮説通り時間を守るなどの学校型能力を持っていることが分かった。一方一般受験生は単位最低限の授業にだけきて単位をもらおうとする功利的屑層や、授業にいつも遅刻してくる遅れてやってくるヒーロー気取り層が多いことがグラフから読み取れる。

【結論】
今回の調査からわかったのは、まず一般生より推薦生のほうがGPAが高いこと。そしてGPAの高い推薦生のほうが学校に時間通り授業に出ていること。そして一般生も推薦生も予習、復習に対して時間を費やしていないということである。
GPAがなく、もがいている一般生は、まず学校にくることから始めよう。そしてちゃんと時間通りに授業に出よう。

【参考までに】
使用したデータのリンクは確認できるようになっているので、興味あるからがいたら見てください。



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定量的調査法について

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定量的調査法についての勉強。(Qualitative Research)

手順として前半ではいかのようなことを行う必要がある。

①問題設定
②仮説の設定
③変数の設定
④調査
⑤分析

問題意識とは、社会の特定の事象に漠然とした関心がある。=こだわり、思い入れのこと。
それについて疑問や矛盾を感じ、疑問文として表すことができる。
自分の場合自称進学校である。

問題意識 例)
なぜ自称進学校は一般受験における学業的パフォーマンスをあげられないのか。

② 関連する事情について知ることによって、問題に影響を与える要因を考える。

要因 例)

・自称進学校自体の教育の質が低いから。受験学力のノウハウを知らないから。
・自称進学校の生徒は、外部機関の教育よりも学校の教育を重要視しないから。
・自称進学校は学校に依存させる傾向があるため、外部機関の教育を否定する傾向にあるから。(強制補習・大量の宿題・塾へ行くことの禁止、参考書の絶対指定)
・進学校のカリキュラムは強制補習や4限以降の授業が短い傾向にあり、一方自称進学校は学校に依存させるため学校の宿題で手一杯になってしまうからではないか。

現象とは、説明したい社会現象のことを言う。これは要因によって説明されるので説明される=被説明変数=従属変数と呼ばれる。

例)自称進学校の合格実績が低い。

一方要因とは、その現象の考えられる要因となるものである。そしてこの要因が現象を説明できるので、説明変数と呼ばれ、また独立変数と呼ばれている。

例) 学校の教育よりも、第三者機関の教育を受けたほうが実績があがるのに、それを否定しているから。

仮設は、このような要因があるので、ある現象が起こっているということだと述べたstatementである。
例) 学校の教育よりも、第三者機関の教育を受けたほうが実績があがるのに、それを否定しているから、自称進学校の合格実績が低い。

そしてこの仮説を検証するためには実際に数値化できるような形に置き換えなければならない。それが作業仮説である。

変数とは。「調査対象の人によって変化するもの(属性、意識、態度、行動)のことを言う。

変数 例)

自称進学校でかつ塾に行かなかった生徒
自称進学校で塾に行っていた生徒
進学校で塾にいかなかった生徒
進学校で塾に言っていた生徒、移行生など

よって自称進学校の研究において

問題設定=なぜ自称進学校は合格実績を上げられないのか
仮説の設定=第三者教育機関(塾)を否定しその教育機会を制限するから
変数の設定=自称進学校通塾者、自称進学校非通塾者、進学校通塾者、進学校非通塾者
調査(後で)
分析(後で)

となる。


おまけ

知識を収納するフレームワークがあると、一貫性を持つことができると某代表と話していて思ったのと、このような調査方法からも、実際に検証する手段が得られるので、知識のフレームワークを習得することはとても大切だなと思った。

出典、引用 )http://www.yc.tcu.ac.jp/~otsuka/sr/sr1.html

最近気になること

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批判点を明確にしないで、かつ抽象的な言葉で相手を責め立てる人。
議論ではなく、打ち負かそうとする人。
相手に分かる形で論点を明確にせず、批判から始めてしまうのは相手の話をもとから聞かず、征服したいという気持ちがあるだけなんだよな。
自分も余裕がないと意見の相対化をできずに、自己防衛に走ってしまうことがある。自己主張は重要だけど、それ以上に他人との会話によってよりよい視点を得ていくことがコミュニケーションだ。だからそれができるようになろう。

Shadow Educationを読んで

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shadow educationの内容を要約。

一般的な教育、それを公教育にせよ私立の教育にせよgeneral educationと定義する。一方試験のために追加のお金を払って手に入れる教育をshadow educationという。
shadow educationの文化はアジア圏特有であるが、地域によって系統が異なる。
まず日本、韓国、台湾などの東アジア圏。ここでは儒教文化のもとに出世と学業成績が大きく影響力を持つ国である。ここでは受験戦争などが見られ、よい教育を受けようと教育の質が争われる。そしてそれを提供するのが第三者教育機関である。
二つ目は中央アジア、西アジア圏で、ここの区域は旧ソ連区域である。この区域は旧ソ連時代に教員の賃金が恐ろしく低かった。(貧困ラインの1.8%)なので授業外でも生徒にチューターとしてつきお金をもらう文化がいまでも旧ソ連崩壊後も根づいている。
最後に東南アジア圏。東南アジア圏では教師のチュータリングによる汚職事件が多発している。
わざと授業中には必要なことを教えず、放課後の教室にお金をはらった生徒には試験に
出る内容を教えたり、試験問題渡してしまったりするのである。
面白いことにブータン王国は塾規制をし、塾の設営を禁止している(しかじ実態は塾がある
みたいだが)

次回はその規制政策とか書いていきたい。

新自由主義

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今回は新自由主義政策教育の関係性について見ていきたい。(文字化すると自分の理解の低さに腹が立ってくる。)

教育。

まずはゆとり教育の話。
2002年からはゆとり教育を実施した。ゆとり教育は当初、子どもたちが受験戦争やストレスから解放されるために、土日をやすみにし、カリキュラムを削減し、それによってできた時間で生徒が自由に時間を使えるようにした。しかし実際に起こったことは、学校のカリキュラム削減が行われたのにもかかわらず私立学校の受験科目の難易度は変わらなかったので、親は子供を塾に行かせるモチベーションがあがり、受験戦争が過熱化したのである。そして、公教育の手厚さが先のゆとり教育によって低減したことで、富裕層のみが必要な学力を得る機会を得、貧困層は低質化した公教育という機会しか与えられなくなったのである。
もし、公教育という聖域が、意図的にも、無意図的にも自由主義の波にさらされてしまえば、そこには持てる者と持てないものとの差が現れてしまう。人間に等しく保障されている学習権を等しく保障するには、経済が介入できない聖域を作る必要があると思う。

教育再生会議の大学変革要請の話。

つい先ほど教育再生会議の提言で、大学は企業にたいして優秀な人材を送ることができず、ミスマッチが起こっているため、大学により実学が含まれた教育を行うべきだと提言した。まずここに、企業側が大学を、就職のための人的資本蓄積機関として見ていると考えられる。一方、企業が大学入学後に新卒生を採用するにあたっては、学歴による選抜が行われていることが多い。だとすれば、企業は大学入学前の能力(訓練可能性)で採用を判断しているのに、それに加えて大学に求めるのは大学入学後のパフォーマンスも求めていることになる。
大学入学前の学力で新卒生の能力を測る分には、企業の勝手だと思う(学歴が訓練可能性を指し示すシグナルとらえている面において)が、入学後の大学教育に新卒生の付加価値を得るために職業教育を求めさせるのはおかしいと思う。なぜなら大学はアカデミックな内容を学びにくるための場所であり、職業訓練の場ではないからである。
もし第三者機関に職業訓練を委託するのであるならば、大学卒業が訓練可能生を示すものとしてとらえざるを得ない世の中を変えることが先であって、職業訓練のための専門学校からより多くの人材を採用する雇用制度に考えるべきだと思う。このままだと、教育の制度も内容もどんどん自由主義の波にさらわれて経済化していってしまうのではないのかと心配でたまらない。そしてここでも、学習権が失われていく。つまり、学びたいものを学べなくなり、価値のないものとされてしまいアカデミックな授業が、またその価値が失われてしまうのではないかとはなはだ不安に思う。


そして政策決定者にも、果たしてその教育政策が実際に経済によい影響をもたらすのかも、十分に批判的に考察してほしい。公教育の量的低減をもたらしたゆとり教育は果たして本当に教育にゆとりを与えたのか。大学の職業訓練化はアカデミックな内容の学習権を失わせないだろうか。なぜ現在専門学校の生徒が大卒より就職で活躍できていないのか。
政策のインパクトと、問題の要因をしっかりと分析して政策をうちだしてほしい。