2018-04-06

青い世界には、対立仮説が必ず存在する

ふはは

お酒が回っている状態で書いているので、適当なこと書いているかもしれませんが、別にどう思われてもいいので書きますははは。


価値は見る視点、見る人によって変わる


同じ事象でも、だれにとって価値があるかは異なる。糞コードでも初心者にとっては、理解しやすいコードであるし、逆に上級者からしたらアンチパターンめっちゃ踏んでて拡張性のない糞コードかもしれない。





つまり、糞コードというのはできる人からの視点であるのだと思う。拡張性の高いコードを書くためには、たくさんの「糞コード」を書かないと意味がないわけで、その世界に行くまでにはたくさんの糞コードをみないといけない。というか糞コードを学ばなければ次の次元リファクタリングにまでも手を出せないわけで、糞コードとはある一定段階の習熟度の人にとって、ある意味可読性とアンチパターンの学習として価値があるのかもしれない。



教育者は抽象化した視点から教えたがるが、学習者は具体的な視点からしか学習できない


そしてできるプログラマーは、できればできるほど抽象化して意見をしたくなる。それは保守性の話だったりとか、可読性の話だったりとかを教育者の視点で見るからである。だが、その保守性や可読性は学習者にとっては学習のブロックになることが多いことを、実は以外に知られていない。学習をmastery learningで考えると、より一層正しいと考えられる。



学習者は、常に抽象化された正しいことを教えたがるけど、実は学習者としてのUXは最低なのかもしれない。


ちょっとできる人は、「能ある鷹は爪を隠す」の心理によってアウトプットしない


そして学習者と教育者の間のちょっとできる人が、通訳をしたらいいと思うのだが、そこに構造的な問題が存在する。それはちょっとできる人は、プログラマーによくある「能ある鷹は爪を隠す」心理特性によって、下手な糞コードを公開しない(爪)ので、初心者がぎりぎり理解できるコンテンツが消えやすい環境にあるのかもしれない。




バカみたいな糞コードのアウトプットが実は学習者にとって価値あるコンテンツなのかもしれない


つまり、世間体とか一切関係なく、初心者にとってプロダクトをつくることが一番ハッピーな話だと思って設計しているスケベチュートリアルって、めっちゃくちゃ可能性があるのかもしれにない。







青い世界には、対立仮説が必ず存在する


「正しい抽象的なコードが教育的なコンテンツとして正しい」と思っている人が多い。そして僕は、初心者にとってはそれは必要ないと思っている。



ある段階に入ってから、正しい抽象的なコンテンツなんて学べばいいと思うし、それよりさっさと失敗して糞コード書けやと思っている。だから正しいことを最初からできるなんて全然思ってない。


それは置いておいて、教育コンテンツが正しいことを抽象的にやると思っているときに、「正しくないことを具体的にやる」ってアプローチでnoteが150冊売れたのは、「青い世界には対立仮説が必ず存在する」という証明だったと思うし、それは常にどの領域でも正しいのかもしれない。







青い世界にたいして、対立仮説を提唱する人はめっちゃ正しい人だと思うけど、その対立仮説を帰無仮説で返せるのってちょっとエロいし、それになりたいなぁと感じる所存。



































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