20歳までに一人目を産む女、28歳までに子どもを産みたいと言う女
ここ最近、大学の同期、会社の同期と飲みに行くが、話す話題が変わってきた。
恋愛の話は今でもする。
どんなタイプが好きか。好きな芸能人はだれか。性格と顔、どっちが大事?とか。
その辺の恋バナだったら必ずする話題だ。
でも、それに加えて結婚の話題が入るのだ。
女「28歳までには、結婚して、子供産みたいな。」
男「え、なんで?」
女「え、だってキャリア的にちょうどよいし、女性は高齢出産は大変だからね。」
男「ああ、そうか。男は金稼いでいれば、正直いつでも結婚できるけど、女子は違うよね」
こんな感じの会話が、ここ2年間くらい続いている。何回話したか覚えていない。
ああ、これが大人の恋愛なのか。高校生の時みたいに、刹那的な恋愛は終わって、
ところで、僕には、20歳で子供がいる中学からの友達がいる。
大学に行かずに、高卒ですぐに子供を産んだみたいだ。
Facebookを見ていると、時々2歳ぐらいの子供の写真が流れてくる。
「ああ、この子、大学に行かずに子供産んだんだ」
軽蔑とも尊敬とも言えない、なんとも言葉にできない感情になって、
母親になった、中学の友達の写真を見る。
僕にはその違和感の正体がよくわからなかった。
でも、その写真から間違いなくわかるのは、彼女が幸せなこと。
本当にかわいい子供を抱いて、笑顔で写っている彼女。
中学生の時には見たことのない顔だ。親になるってこういうことなんだろう。
そんな彼女の写真をスマホで見ながら、夜の帰宅ラッシュの山手線で、ボロボロになりながら帰っている、いかにもストレスを抱えているような都会のキャリアウーマンを見る。うん、彼女よりは間違いなく幸せそうに見える。
「なんなんだろう。この違和感。」
僕は、その違和感の正体を突き止めようと思って、いろいろ考えていた。
物差し族と絆族
世の中には、2種類の民族がいて、僕らの世界は物差し族、Facebookのあの子は絆族というらしい。
僕らは、大学に出て、大手企業に就職している物差し族だ。
親もきちんとした教育を受けているから、教育が大事だということも、高卒で結婚して子供産んでも、子供にいい教育を与えられないこともわかっている。
序列化された偏差値という基準で競争をし、序列化された大学に入り、序列化された就職先に内定し、キャリア・「年収」という定量的な物差しの中で、山手線でギューギュー詰めになっている民族だ。たまに「顔面偏差値」とかいう新しい指標でも測られるらしい。
僕らの正義は、子供に大学レベルの教育投資すること。高卒から子どもを産むとかありえない。教育投資のためなら、ある程度キャリアを積んでからじゃないと子供は産めないし、そう何人も投資できないから子供もそんな産めない。
そして彼らは、絆族だ。生まれ育った地元で出会ったパートナーと、高校卒業してすぐに結婚して、早く子どもができる民族だ。
彼らは僕らものさし族みたいに、数字で序列化されることも、電車で缶詰にされることもない。親もまた大学には行っていないから、高校卒業後は地元で仕事について、早い時から子どもがいて、その気になれば2人、3人と産むのは簡単だ。教育にはそんなお金はかけるつもりはないから。
彼らの正義は絆だ。彼らの昔からのコミュニティ、家族、クローズドな友人関係で、あらかた幸せは手に入ってしまう。子供にも多く恵まれ、家族団らん幸せに生きているのだ。子どもには教育費をかけない分、どんどん産める。20代前半で子供を産むから、30になるまでには2人以上産むのはとても簡単だ。
物差し族がひいひい言って、やっと一人目を高齢出産している間に、彼らはもう二人目を産んでいるのである。
僕ら物差し族と、彼ら絆族の間には、学歴という国境線が普段しいてあって、
普段お互いの生活がよく見えないらしい。だけどどうやらFacebookというツールは、国境線を超えて情報を届けるらしい。
それによるとどうやら僕ら物差し族は、物差し族のものさしの中で生きているし、
絆族は、絆族のものさしの中で生きているみたいだ。
僕ら物差し族は物差し族の中でいる限り、幸せなんだろうし
彼ら絆族も、絆族の中でいる限り、幸せなんだろう。
僕が持っていた違和感の正体は、物差し族の正義とは別の、絆族の正義だったのかもしれない。