2017-08-09

『善人ほど悪い奴はいない』 中島義道




中学生のころから大ファンの哲学者中島義道さんの「善人ほど悪いやつはいない」を読んでみました。ちなみに中島さんのプロフィールはこちら。


中島義道(なかじま・よしみち) 1946年、福岡県生まれ。前電気通信大学教授。現在は私塾「哲学塾カント」を主宰。東京大学教養学部並びに法学部を卒業。77年、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。83年、ウィーン大学基礎総合学部哲学科修了。哲学博士。専門は時間論、自我論。著書に『うるさい日本の私』『孤独について 生きるのが困難な人々へ』『醜い日本の私』『ひとを〈嫌う〉ということ』『生きにくい… 私は哲学病。』『ひとを愛することができない マイナスのナルシスの告白』『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?』『孤独な少年の部屋』『ウィーン家族』など話題作多数

特に響いたところを激選してまとめます。



善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)
KADOKAWA / 角川書店 (2014-04-21)
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善良な弱者とは、「弱者の特権」を要求する人



弱者とは、自分が弱いことを骨の髄まで自覚しているが、それに自責の念を覚えるのでもなく、むしろ自分が弱いことを全身で「正当化」する人のことである


「私(俺)は弱いから」という理由を、臆面もなく前面に持ち出して、それが相手を説得し自分を防衛する正当な理由だと信じている人、自分が社会的に弱い立場にいることに負い目を感ずることがまるでなく、それから脱する何の努力もせずに、むしろ自分の弱さを当然のごとくに持ち出し、「弱者の特権」を要求する人のことである


自分(弱者)は理不尽に苦しみを背負っている被害者であるゆえに「正しい」のだ。そして、生まれつきの資質に恵まれたもの、結果として報われた者は、その苦しみを背負っていないがゆえに「正しくない」のだ。こうして、自分が弱いことを全身で正当化する弱者、すなわち「善良な弱者」が完成されるのである


彼らは自分が善良だと信じているが、そのじつ、彼らの前足が麻痺しているだけのことなのだ。弱者は、攻撃する「前足」が弱いがゆえにこっそり「善良」と裏で手を結ぶ。そのことによって、善良な自分の正しさを揺るぎないものとして確信する。いや、それに留まらない。その裏の論理を高く掲げて、強者を「強いがゆえに悪い」と決め込むのだ。


弱者は「弱さ」を生きる理由にする。弱者は「私(俺)は弱いからしかたない」という原理に初めはこそこそと、だが次第に大っぴらにしがみついていく。しかも、「しかたない」と呟きながら、けっして自己責任を認めない。  だが、──ここがとりわけ重要なのであるが──、俺(私)は弱者なんだから、みんなが理解していることが理解できなくとも、思わぬ過失をして大損失しても「しかたない」とはならない。そうではなく、弱者の理解力に合わせて、弱者がいかなる損失も被らないような「思いやりのある」社会を実現しなければならないのだ。つまり、自分ら弱者に社会全体が「合わせるべきだ!」と大声で訴えるのである


善良な弱者は悪である



弱者は悪いことをしない 。善良な弱者は社会の裁きを絶対的に恐れ、その裏返しとして裁かれた者を絶対的に侮蔑し排除する。彼らは社会制度に対して疑うということがまるでない。いや、そうではない。いったん自分が制度の被害者になれば、「制度の不備」を鉦や太鼓でわめき立てる


善良な弱者が犯罪に手を染めないのは、彼らの良心が痛むからではない。彼らは間違ってそう思い込んでいるが、彼らには厳密な意味で良心などはない。良心とは、社会的掟と自分自身の抱く信念とのあいだがずれるときに鮮明化するが、彼(女)にはこうしたズレは金輪際生じないからである。


善人が悪事をなさないのは、それが「悪い」からではない。ひとえに社会から抹殺されたくないから、つまり悪をするだけの勇気がないからである。社会に抵抗してひとりで生きていけるほど強くないからである。  それにもかかわらず、彼らは「良心がとがめるゆえに悪いことをしない」のだと思い込んでいる。善人の最大の罪は、鈍感であること。つまり、自分自身をよく見ないこと、考えないこと、感じないことである


善人とは弱者であるゆえに自分は善良であると思い込んでいる人のこと、言い換えれば、弱者であるゆえの「害悪」(ああ、それは何という害悪であろう!)をまったく自覚しない人のことである


なぜ世の弱者は、自分の中の弱さを変えようとしないのだろうか? 変えようとしないばかりか、それを誇りさえするのであろうか? 思うに、弱者は──狡く怠惰なことに──どこまでもラクとトクを求めるからであり、そのほうが自分の中の弱さを変えるよりずっとラクでトクだからである


ヒトラーは大衆=弱者の心理を知り尽くしていた。彼は、大衆の心を、すなわちその愚かさ、単純さ、飽きっぽさをつかんだがゆえに、権力を掌握できたのである

宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣伝が目ざすべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。それゆえ、獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない。(『わが闘争』 平野一郎訳、角川文庫)  


善人は好意を振り撒く


善人はあたりかまわず「好意」を振り撒く。それは、じつは自分を守るためである。それはそれぞれの相手の価値観や人生観を研究しての好意ではなく、「すべての人に喜ばれる」つもりの好意であるから、粗っぽい押し付けがましい好意であり、「すべての人に喜ばれるに決まっている」という思いに基づく傲慢至極な好意である


とくに企業(私に関係するところでは、出版社、眼鏡店、リフォーム会社など)からの膨大な年賀状(しかも、私の宛て名は紙を貼り付けただけのもの)は、ただ今年も「あなたを利用して儲けたい」という宣言だけではないか! 絵を買った画家や画廊あるいは音楽会社や劇場からの年賀状は「また買って(来て)ください」という要求だけではないか


善人は、こうしてすべての人に対して反感を持たれないように細心の注意を払う。自分は弱いから、真実を語って身の危険を招き寄せる余裕はないのだ。自分は弱いから、自分を守るだけで精一杯なのである。こうした「論理」を高々と掲げながら、真実を足蹴にすることをものともせずに、その上に居直っているのが善人である


善人は群れをなす



善人は群れをなして権力を握る  善良で弱い者は、たえず胸に不平を抱いている。しかし、その不平を少しでも身の危険のあるところで発散させることはない。積もり積もる不平もまた絶対安全な場所においてのみ表出するのだ


善人は弱いことを自覚しているからこそ、最も卑劣で姑息なやり方で権力を求める。つまり、彼らは「数」に訴えるのである。一人ひとりは弱いが、結束すれば、団結すれば、山をも動かし、巨悪をも打ち倒すことができよう


弱者は、よく社会のルールを守る。なぜなら、彼らが生き抜くには、みずからの欲望を押し殺し、しぶしぶ社会のルールに従うしか術がないからである。だから、彼らは善人になるしかない。善人とは、与えられた社会的ルールに、何の疑いをも持たずに従っている者なのだから。 こうして、彼らはどこまでも品行方正な市民になり、ルール破りの者を、顔をゆがめて激しく断罪する

感想


「善良な弱者は悪である」のヒトラーのくだりとか、これを思い出しました。



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