2017-07-09

リベラルアーツと多動力は、ナンバーワンではなく、オンリーワンを作る能力だと思う

堀江氏が語る多動力は、リベラルアーツとめっちゃ似ていると思った話



今、多動力という言葉がはやっている。堀江氏いわく、一つの分野にこだわらず、いろいろなことに80点のできで、こなすことができるようになる能力だ。

「多動力」とは何か。それは、いくつもの異なることを同時にこなす力のことを言う。...
1度深くまでハマり、あっさりと次へ移る。これからの時代は、そうやって80点取れるものをいくつももっている人が強い。(堀江貴文氏「多動力こそが最も重要な能力だ」)

多動力を聞いたとき、リベラルアーツ教育について、意外な類似点があることに気付いた。僕の母校であるInternational Christian University(ICU)では、1-4年生までの間、リベラルアーツ教育を受けることになっている。


1-2年生のうちは文理関係なく、どんな授業でも取ることができた。僕は教育学専攻(正確には教育社会学)で卒業したが、そのときの興味に応じて、社会学、心理学、経営学、経済学、コミュニケーション学、統計学と様々な分野を学んだ。





確かにリベラルアーツは、専門性は低く、困ることも多かった


リベラルアーツは、世の中で思われているほどいいものではない。なぜなら、専門性に欠けるからだ。専門学科が存在しないため、ある興味を持ったとしてもその分野に先生がいないことは多々ある。それに、1-4年まで計画的なカリキュラムで学ぶわけではないので、何をいつどのように学ぶのはかなり自己責任だ。


僕はもともと教職志望で、もともといわゆる教員養成系の授業ばかりとっていたが、問題関心が変わり、大学3年生の後半から社会学に目覚めた。それでいきなり社会学専攻になると、どうしても過去の学問蓄積がないので、量的調査法(具体的には統計)の知識・技術が薄いまま、社会学を専攻することになった。


教員養成系の授業は、言語学、言語教育学、教育社会学・哲学などの教育について体系的に学ぶ必要があったらから、どれもいろいろかじったけれども、対して深くは知りえないことが多かった。


実際、後から社会学を専攻した際に、ど文系だったため、統計学の知識を一から積むのは死ぬほど大変だった。だから、卒論を書き終えるまでによりベターな統計モデルを利用することができずに、悔やんだことがある。


よくリベラルアーツ大学が、何も専門性を身に着けられないと揶揄されることはあったが、僕は卒業するまで、「確かに何もそこまで専門性がないまま卒業してしまったな」と思ってしまうことがあった

リベラルアーツは、多動力のためにあった


ところが、堀江さんの「多動力」を読んで、気づいたことがある。リベラルアーツ大学の研究は、まさに「多動力」を学ぶ教育だったのではないかと。


僕の卒論は、教育社会学における、塾と学校の関係性がテーマで、塾が学校教育にどのような影響を与えうるのかというテーマだった。簡単に言うと、「塾の授業に対して高評価なほど、学校の授業の活動に熱心ではなくなる」という仮説をもとに書いたものだった。


でも、この着想は自分自身の問題意識に加えて、経済学、統計学、社会学、経営学、哲学のバックグラウンドがなければ決して得られなかった仮説のもとに生まれた。例えば、このバックグラウンドには行動経済学の合理性についてがバックグラウンドがあるし、おそらく仮説の効果検証には、統計学の知識が必要だった。さらに、どのような要因が影響を与えているのかという視点では、socio-economic backgroundを変数とする社会学の知識が必要であったし、最後に結果は(その卒論の中では、塾への評価、偏差値、性別が学校の授業の授業へのコミットメントに大きな影響を与えた)、哲学的な正義論的なバックグラウンドがなければ、決して議論できない。もちろん教育学の先行研究がなければ、教育分野でのメインイシューが見つからなかったと思う。


確かに、もともと社会学科に入ってから、ちゃんと基礎から統計学を学んで、よりもっとモデルがよい統計手法を選べたかもしれない。だけど、どれでも80%レベルの理解でまなぶリベラルアーツがなければ、世界という事象をより複数の視点で見ることができなければ、この仮説は生まれなかったかもしれない。


リベラルアーツには、競合はいない。あるのは、面白い差違だけだった



そして、大学時代一番面白かったのは、垂直的に学問が評価されなかったことだ。なぜなら、誰もが別の授業をとっていて、誰もが違う専門分野を勉強している。そこにあるのは、どれだけその差異・そして問題関心に基づく仮説が面白いかだけだった。


例えば、図書館で横に座っている人は難しい数式を書きながら数学しているし、となりの友達は言語学で数式を書いている。となりの友達は、デンマークと教育の日本の教育をPISAデータと質的データで比較している。実はこれ全員教育学専攻の人間だ。


誰一人比べられないのだ。なぜなら、同じ教育学を学んでいる友達でも、学んでいることは違い、自分の面白い仮説も全然違う。くだらないテストの点数で戦っていないのだ。そこには個性しかない。仮説という個性で、その人が何にどれだけ関心を持っているのか、そういう面白さしかないのである。

多動力のある学びをしている人の仮説は、その辺の「勉強できる人」より死ぬほど面白い


そして、そういう多動な学びをしている人は、例外なく死ぬほど面白い。なぜなら、誰も同じ垂直的なフィールドで戦っていないからだ。先生にやれと言われた、車輪の再発明的な研究は誰もしていない。


いろいろな授業を受けて、一人ひとりが別々の仮説をもっている。そしてその問題関心はその人の独自の視点に基づいているから、学問競合はほとんどいない。誰も縦で戦っていないのだ。最高に面白い環境だった。


リベラルアーツと多動力は、ナンバーワンではなく、オンリーワンを作る能力だと思う



リベラルアーツと多動力は、ナンバーワンではなく、オンリーワンを作る能力だと思うのだ。つまり、同じテストではかられる点数で上下評価できないような、その人の本当に興味のある問題関心と、複数の関心から得られる疑問、そういう技能から生まれる立体的な視点が、オンリーワンの価値を生むのだろう。


今は差異が価値になる時代。現代に必要ななのは、専門性ではなく、多動力なのかもしれない。そしてその多動力は、リベラルアーツによって生み出されるのだろう。


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